複言語のすすめ

翻訳の歓待としての外国語学習

ソッティーレ,マルコ(経済学部, フランス語)

 外国語を学ぶとは、単語や⽂法を覚え、正しく話す技術を⾝につけることだけを意味するのだろうか。もちろん、⾔語学習には反復練習も、発⾳や構⽂の習得も⽋かせない。しかし、それだけでは、その経験の豊かさを⼗分に捉えることはできない。むしろ外国語を学ぶとは、別の⾔語のなかで世界がどのように分節され、語られ、感じられているのかに触れることでもある。

 このことを考えるうえで⽰唆的なのが、セネガル出⾝の哲学者スレイマン・バシル・ディアニュである。ディアニュは、コロンビア⼤学名誉教授であり、数理哲学、イスラーム哲学、アフリカ哲学、フランス哲学など、複数の知的伝統を横断しながら思考してきた。近年、⽇本でも『アフリカ哲学のために―存在・時間・⾔語・政治』(⻘⼟社、2026 年)が刊⾏され、その思想に触れる⼿がかりが広がりつつある。

 ディアニュの思想において、とりわけ重要なのが「翻訳」である。彼にとってそれは、単に⼀つの⾔語の内容を別の⾔語に置き換える作業ではない。ある⾔語で考えられたものを、別の⾔語のなかに迎え⼊れることであり、その過程で、受け⼊れる側の⾔語もまた変化していく営みである。つまり翻訳は、他者の思考に場所を与える「歓待」の実践なのである。

 この「歓待」という考え⽅が重要なのは、翻訳が決して⼀⽅的な吸収や同化ではないからである。異なる⾔語で表現された概念や感覚に出会うとき、私たちはそれを⾃分の⾔語の枠組みに無理に押し込むのではなく、その異質さをできる限り保ちながら理解しようとする。そこでは、他者の⾔葉を受け⼊れる側にも、忍耐や想像⼒が求められる。翻訳とは、完全な⼀致を⽬指す作業ではなく、むしろ⼀致しきれないものを前にして、それでもなお関係を結ぼうとする試みなのである。

 その意味で、翻訳は私たちに、⾃分の⾔語が唯⼀の中⼼ではないことを教えてくれる。当然に⾒えていた考え⽅や感じ⽅も、他の⾔語と出会うことで、はじめて相対化される。ある⾔葉が別の⾔語にはそのまま存在しないこと、ある概念が翻訳の過程でずれを⽣むことは、単なる不便ではない。むしろそこにこそ、⾔語を学ぶことの豊かさがある。翻訳不可能に⾒えるものに出会うとき、私たちは他者の世界の複雑さを知ると同時に、⾃分⾃⾝の⽂化を新たな⽬で⾒直すことになるのである。

 この視点から⾒ると、外国語学習もまた、⼩さな翻訳の経験である。たとえば、ある語を辞書で調べても、それに完全に対応する語が⺟語のなかに⾒つからないことがある。ある表現は、⽂法的には理解できても、その背後にある歴史、社会関係、宗教観、礼儀、ユーモアを知らなければ、⼗分には理解できない。そこで学習者は、⾔葉と⾔葉のあいだ、⽂化と⽂化のあいだに⽴つことになる。

 ディアニュは、普遍性を上から押しつけられるものとしてではなく、複数の⾔語や⽂化の出会いのなかでつくられていくものとして考える。外国語を学ぶことも、それに似ている。私たちは外国語を通して、他者の世界を少しずつ翻訳しようとする。同時に、⾃分⾃⾝の世界もまた、他者の⾔語によって翻訳され、変化していく。⾔語を学ぶとは、効率的なコミュニケーションのためだけではなく、異なる世界のあいだに橋を架ける営みなのである。

(2026.9.15掲載)