複言語のすすめ

西脇順三郎と瀧口修造:複言語の視点から

笠井 裕之(法学部,フランス語)

 西脇順三郎(1894-1982)。慶應義塾に学んだもっとも重要な詩人、いや世界を代表する詩人のひとりというべきだろう。その西脇はまた「複言語」というテーマに照らしても特異な輝きを放つ存在である。大学では英文科の教授として古代中世の英語英文学を専門としたが、学生時代は理財科(現在の経済学部)に学び、卒業論文は全文ラテン語で書き上げた。初期の詩は日本語ではなく英語やフランス語で発表されている(萩原朔太郎の『月に吠える』を読むまで詩は日本語では書けないと思っていたという)。1922年から3年間、イギリスに留学。オックスフォード大学で学ぶ一方、英語による詩集『スペクトラム』をロンドンで刊行している。またフランス語の詩集『感情的な時計』を書いてパリで出版しようとしたが、これは実現しなかった。そして日本語による詩作が本格化するのは帰国後のことになる。つまり西脇の日本語の豊穣な詩の世界は、英語とフランス語による創作を経由して切り開かれたものだった。西脇には日本語という単一の言語に恋々とする素振りは見られない。むしろ複数の言語の壁を通り抜ける自在さにこそ、詩人西脇の稀有な資質があったのではないか。晩年にはギリシア語と漢語の比較研究に生涯最後の情熱を傾け、厖大な(謎めいた)ノートを遺している。
 西脇に教えを受けた最初の学生に瀧口修造(1903-1979)がいた。帰国したばかりの西脇はヨーロッパの文学芸術の新しい潮流、とりわけシュルレアリスムの動向を学生たちに伝えた。シュルレアリスムとは想像力の絶対的自由を実現しようとする20世紀最大の文学芸術運動である。瀧口はアンドレ・ブルトンらフランスのシュルレアリストと親しく文通し、戦前の日本における前衛芸術運動を牽引したが、思想統制が激化する時局にあって、それは官憲との危険なせめぎあいを意味していた。1941年、瀧口は特高に検挙され、拘留は8ヶ月に及ぶ。この事件とともに日本のシュルレアリスム運動は終息した、とされる。
 戦後の1956年、瀧口は「西脇さんと私」と題する文章をこう書きはじめている。

   長年月私は西脇さんの軌道から非常に距たったところを歩いてきた。しかし西脇さんとの出会いは、私に決定的な影響をあたえたことはいうまでもない。西脇さんはシュルレアリストとはついに自称しなかったが、私にシュルレアリスムの純金の鍵をくれたはずである。この鍵を私はいつの頃か知らないが、水中に落してしまったらしい。

 「シュルレアリスムの純金の鍵」をふたたび見出すこと。瀧口にとって、それは戦前のシュルレアリスムを捉えなおし、新たな展開へと導くことを意味していたのではないか。1960年代以降の瀧口は、マルセル・デュシャン、ジョアン・ミロ、アントニ・タピエスらとの共同作業を通じて、個人の枠を超える「集団的想像力」の可能性を追求するが、それは言語の壁を乗り越えることによって開かれるものでもあった。たとえばミロと共作した詩画集『手づくり諺』(1970)。晩年の瀧口は「諺」のスタイルで短い断章を数多く書いている。無機質で匿名性の高い、言語のオブジェのような瀧口のテクストは、ミロの発案でオリジナルの日本語のほかに六つの言語に翻訳された。それぞれが墨一色の図柄と組み合わされ、さらに色彩の異なる七種の刷りの版画が同梱された。詩と画が手をたずさえて多言語を表現しようとする、美しく力強い詩画集。しかもその言語のなかには、ミロの母語であり、フランコ独裁下のスペインで厳しく抑圧されたカタルーニャ語も含まれていた。瀧口とミロの二人にとって、この詩画集は単なる友情の記念にとどまらない意味をもつ。それは詩人と画家のコラボレーションによって増幅された想像力が、言語の違いや国境、そして不幸な歴史によって築かれたあらゆる障壁を打ち崩そうとする、強靭な、共同の夢の実現なのである。
 詩の言語がもつ根源的な生命力はもとより普遍的であり、したがって「複言語」的である。西脇順三郎と瀧口修造にとって「複言語」の認識は、通信技術が今よりはるかに限られていた戦前の時代から、すでに自明のことだったのである。

(2019.4.1掲載)