複言語のすすめ

アラビア語への誘い(?)

勝沼 聡(文学部,アラビア語)

 今回私が紹介するアラビア語は、第二言語話者を含めると話者人口は現在4億人を超え、国連公用語のひとつにも指定されている世界有数のメジャーな言語である。アラビア語由来の単語を含む言語、あるいはアラビア文字を表記に使用する言語が世界各地に数多く存在するなど、他言語に及ぼした影響も大きい。また、イスラームの聖典クルアーン(コーラン)は、アラビア語により記され、また読(誦)まれるものとされているため、ムスリム(イスラーム教徒)にとりアラビア語は信仰上も重要な地位を占める(クルアーンはアラビア語以外の数々の言語に翻訳されているが、それらはクルアーンの解釈とされる)。
 慶應義塾大学は、そんなアラビア語の学習機会が比較的豊富な大学のひとつだ。三田キャンパスでは私が所属する文学部はもとより、法学部や言語文化研究所が講義を、さらには慶應外語が公開講座を開講している。日吉キャンパスには外国語教育研究センターや法学部による授業が設けられているほか、湘南藤沢キャンパス(SFC)はアラビア語を学生が履修可能な11言語のひとつに位置付けている。
 古今東西におけるアラビア語・アラビア文字の重要性と本学における学習機会の豊富さに比べ、アラビア語履修者の数は決して多いとは言えず、履修したものの中途で学習を放棄する学生も決して少なくない。現在は少々様子が異なるようだが(理由は後述)、私が学生の時分には季節の移り変わりとともに出席者の数は次第に減り、学年末にはわずか数人を残すのみとなることも珍しくなかった。
 アラビア語は、とくに初学者にとり学習難易度が非常に高い言語とされる。なによりもまず文字自体が「くせもの」だ。ラテン文字や漢字に次ぐ使用者人口を誇るアラビア文字だが、日本列島に生きる人びとの大多数には全く馴染みのない姿形をしている。さらにアラビア文字には、単語中のどの位置(語頭、語中、語尾)にあるかにより形が微妙に(時に大きく)変わるという特徴がある。すなわち、アラビア文字体系は28文字からなるが、実際に習得するにはより多くの文字を覚えなければならないということになる。私自身、この文字を覚えるのに大変苦労した。学習を始めた当初は、長期休暇などで学習を中断するとたちまち文字の判別が怪しくなったものだった。
 文字を習得することのほかにも、初学者の前に立ちはだかる関門はある。アラビア文字には短母音を表す文字が無いため、文字(とその音価)を学習しただけでは文章を読むことはおろか、単語を読むことすら覚束ない(クルアーンや子供向けの文章には短母音を示す記号が付されるなど、例外はある)。さらに、一般的な辞書における単語の配列が特殊なため(詳細は省くが、いわゆる「アルファベット」順の配列ではない)、単語の読み方や意味を調べるために辞書を引くのにも一定の文法知識が必要となる。
 アラビア語履修の忌避を促すようなことばかり書き連ねてきたが、幸いなことに近年学習の敷居はどんどん下がっている。オンライン上のツールや辞書アプリの発達により、単語の読み方や意味、これまた初学者には煩雑極まりない動詞の活用形などの把握が容易になった結果、アラビア文字(こればかりは如何ともしがたい)を除く初級段階における学習上の「障害」は解消されつつある。
 アラビア語を学ぶことは、単に「アラビア語の現在」を知る手段を得るだけにとどまらない意味を持つ。アラビア語文法は西暦8世紀頃に確立を見た後、現在にいたるまで大きな変化を経験していない。すなわち、アラビア語を学んだならば、あなたは過去1300年に渡り蓄積されてきた膨大な知的遺産(トゥラース)に通じる扉の鍵を手に入れたことになる。扉はおいそれと開かないかもしれないし、開いた扉の先にはさらに長い道が続いているだろうが、これほどに現代語の知識が古語に通じる言語は少ないのではないだろうか。慶應義塾大学でアラビア語を学び、アラビア語文化の豊かさに触れる人が一人でも増えることを願っている。

(2022.3.29掲載)