複言語のすすめ

寛容の練習:言葉を学ぶことの倫理

西尾 宇広(文学部,ドイツ語)

 ひとつの言語を学ぶことは苦労の連続です。自分のよく知る言語とはまったく違う文法ルールを理解することは、決して簡単ではありませんし、たとえそのハードルを越えたとしても、その言語がある程度使い物になるまでには、語彙をひとつひとつ増やしていく長い道のりが待っています。勉強をつづけていくなかで、あるときふっと言葉の仕組みが理解できたり、その言語を使ったコミュニケーションに成功したり(ここにはオーラルの会話能力だけでなく、もちろん読み書き能力も含まれます)、発見や達成の楽しさを実感することも多々ありますが、それでもやはり、地道な努力と忍耐という王道をとおらずして、言語の習得は不可能でしょう。
 新しい言語を学ぶさいにぶつかるこうした困難は、見知らぬ人や文化にはじめて出会ったときの困惑に、少し似ているような気がします。何を考えているのか、どういう習慣を持っているのかもわからない相手に対し、あたりさわりのない話題から探りを入れつつ、その人となり(言葉となり?)を理解しようと根気強く努めること。そして運よく関係がつづき、相手のことを深く知ることができたとしても、ふとした瞬間に自分の知らない顔が垣間見えたり、いつまでも理解しきれない部分が残りつづけたりすること。ひとつの言語を学ぶ経験は、〈自分とは異なる他者〉との出会いを疑似的ないし比喩的に経験できる好機なのかもしれません。
 言語習得をひとつの他者経験として理解するなら、異なる言語と言語、人と人、文化と文化を橋渡しするための基本的な方法は「翻訳」でしょう。翻訳によって言葉どうしが国境を越えて交流し、そうした試みが無数につみかさねられていくことで、ひとつの言語で書かれた文学からやがて「世界文学」が生まれる、という夢を、いまから200年前に語った人がいました。ドイツの文豪として知られるゲーテです。晩年の彼が生きた19世紀は、前世紀末の産業革命を経て交通・通信技術が飛躍的に発展し、経済的な意味でのグローバル化が一挙に進展するとともに、ある意味ではそれに対する反動として、自国の文化や民族の固有性を主張する声がしだいに大きくなる時代でもありました。こうした時代のとば口に立って、「国民文学にはいまやたいして言うべきことがない、世界文学の時代がはじまるのだ」という有名な言葉を残したゲーテは、それぞれの国の文学が国内の読者だけを相手にするのではなく、翻訳を介して世界の読者にひらかれることで、文化の相互交流が進み、偏狭な自国中心主義が少しでも中和される未来を期待します。それは、言葉をとおした〈寛容〉への道のりでした。望ましい「世界文学」の発展にことよせて、彼はつぎのように書いています。「肝要なのは、諸国民が同じ考えを抱くべきであるということではなく、彼らがただ互いの存在に気づき、理解しあい、たとえ互いに愛しあうことができないとしても、少なくとも許容しあうことを学ぶべきであるということだ」と。

 現在のわたしたちは、その後の歴史がゲーテの望んだようには進まなかったことを知っています。幾度となく戦争をくりかえしながら、わたしたちはいまだにお互いを「許容しあう」ことを十分に学びきれているとはいえません。いまや「分断」は現代社会を語るさいのキーワード、というよりもむしろ常套句のひとつとなり、SNSとインターネットで過剰に増幅された感情の暴発を目にすることも、日常茶飯事になりました。ウクライナの戦争は、この原稿を書いている時点ですでに、半年以上もつづいています。そして、積極的に報道されるその戦争の背後には、世界各地で難民となっているさらに多くの人たちが現実に存在しています。その事実は大手のマスメディアではほとんど伝えられることがありません。難民申請がことごとく却下されてしまうこの国においてはなおさらに、彼女/彼らの存在はわたしたちの意識にほとんど上ることもなく、あたかも存在すらしないかのように忘却の淵に追いやられています。
 ひとつの外国語を学びはじめると、その言葉が使われている地域のことが突如として身近に感じられるようになります。たとえばニュースでそうした情報を耳にするたび、自然とそちらに注意が向くようになるのです。いまの世界、いまの時代に複数の言語を学ぶことは、遠く離れた場所に暮らす人々に、そして、じつは身近に存在しながらそれまで自分が意識してこなかった人々に、心理的に近づきつつ、ささやかな当事者意識を分かち持つための必須のマナーとなりつつあるように思います。

 さらに、複言語の学習が複数の他者との遭遇に等しいものであるとしたら、時間をかけてそれらの言語を学ぶ経験は、それ自体が、意見や価値観の異なる相手と時間をかけて向き合っていくための恰好の練習にもなるはずです。たとえば、学習者の側がどれだけ違和感を抱いても、言語のルールを勝手に変えることはできないので、まずはその理屈をなんとか理解しようと努めるしかありません。他人と対話するさいに求められる最初の姿勢も、基本的にはこれと同じでしょう。自分の意見をただ押しつけるだけでなく、相手の言い分に耳を傾ける態度がなければ、そもそも健全な対話は成り立たないからです。
 「世界文学」について語ったゲーテは、こうした対話的な交流をとおして、言語そのものが〈変化〉する可能性についても考えていました。自分の母語とは異なる言葉を「翻訳」しようとすると、どうしてもうまくいかないことがあります。とはいえ、原文に書いてあることを勝手に変えることはできないので、そういうときにはこちらのやり方を工夫するしかありません。そうやって考え出された表現は、さしあたり母語としてはいくぶん不自然な印象を与えることもありますが、そのようにして外国語の影響を受けるなかで、ひとつの言語が新たな表現可能性にひらかれていく過程自体を、ゲーテは重要視したのです。
 ひとつの言語の持つ価値が、他の言語からの影響にさらされてはじめて洗練されていくものだとしたら、このことは、言語をつうじた対話そのものが持つ倫理的な重要性を物語っているのかもしれません。複数の言語を学び、同じ世界に対するさまざまな理解の仕方があることを知ることは、グローバル化によってますます均質化していくように見える現代世界で、ふだんはその均質な表層によって覆い隠されている多様な人々が抱える多様な可能性と複雑な問題に気づくための、最初の一歩となるはずです。

 努力によって異なる言語を理解できるようになるのとは裏腹に、努力がなければ、同じ言語を話している相手の言うことすら理解することはできません。いまの社会で必要なのは、うわべだけの政治的なスローガンとして「聞く力」をアピールすることではなく、相手の意見を理解することをめざして不断に継続される真摯で地道な努力なのだと思います。

(2022.9.15掲載)