複言語のすすめ

Merci viilmol !
―スイスと4つの公用語―

小林 拓也(理工学部, フランス語)

 複言語や多言語が話題となる時、よく参照される国「スイス」。このコラム欄でも、藤谷先生の回に登場していますね。「公用語が4つ」ということで、話の種はつきません。今回は基本のキ、この国名と公用語の問題について見てみましょう。


 まずは「スイス」ですが、これはフランス語での言い方=Suisseによるものです。ただ、ドイツ語ではSchweiz、イタリア語ではSvizzera、ロマンシュ語ではSvizraとなり、決して「スイス」とだけ呼ばれているわけではありません。英語ではSwitzerlandですが、はっきり書かなかったので荷物がアフリカのSwazilandに配達されてしまったというジョーク、スイスではお決まりです。ちなみに、漢字では「瑞西」、西洋史の分野では「盟約者団」とも呼ばれます。
 ネットでおなじみのJPやUS等の国名コードはどうなるのでしょうか。SU?SW?いえいえ、まさかのCHです。よく中国と間違われるというのも、スイスあるあるです。4言語を併記するスペースの少ないケース、例えば貨幣や切手ではラテン語のConfœderatio Helvetica で「スイス連邦」を表すことが多く、その頭文字というわけです。Helveticaは、古代ローマによる支配前に住んでいた「ヘルウェティイ族」からきています。
 国名だけでなく、都市名や地名も各言語によって異なることが多くなります。「ゲンフ」がどこだかわかりますか?これはGenèveのドイツ語での呼称です。では、フランス語話者が「バール」と言ったら?正解はBaselです。その他、 Neuchâtelが「ノイエンブルク」、Matterhorn が「チェルヴィーノ」等々、住んでいれば自然と覚えていきますが、観光中、電車やバスのアナウンスでいきなり言われると、「え、今どこ?行先間違えた?」となってしまいますよね。
 よく知られた国旗は、連邦の起源の1つSchwyz州のものに由来しています。お気づきのように、ドイツ語でのSchweizという国名も同様です。ついでながら国歌ですが、正式に定められたのは20世紀中盤で、同じメロディーに4つの言語の歌詞があります。ただ、人気や認知度は今ひとつで、例えばフランス語圏の人々は、「スイス国歌は歌えないけど、『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)なら歌える!」とよく言います。


 国の基盤と言えそうな以上のような事項にもある種のゆらぎ、ゆるさが認められることは興味深いですが、「公用語が4つ」についても、現地へ行くと捉え方がかわります。例えば「ドイツ語」ですが、きこえてくるのは標準ドイツ語ではなく、かなりクセの強い方言になります。ドイツ語話者でも「全く理解できない」と言う人がいるほどです。しかも首都Bern、金融都市Zürich、東部の街Sankt Gallen等々でかなりの差があります。例えばGuten TagはBernでは「グリュエッサ」、Zürichでは「グリエッツィ」となります。文を書く際は基本、標準ドイツ語が使われます。つまり、Mein Name ist Takuyaとは書くわけですが、例えばSankt Gallenの街中での会話なら「ミー・ナーメ・イッシュ・タックーヤ」と、日本の教室で習うものとはかなり異なる発音やリズム、イントネーションがきこえてくるわけです。
 「フランス語」のケースはそこまでではありませんが、それでも例えば数字の70 (soixante-dix), 80 (quatre-vingts), 90 (quatre-vingt-dix)は、オリンピックの街Lausanneではseptante, huitante, nonanteとなります。ただ、GenèveやNeuchâtelでは80はquatre-vingtsのままです。また、朝、昼、夜の食事はdéjeuner, dîner, souperと、フランスとはズレが生じます。On dîne ensemble demain ?と誘われたら、よく確認して約束をすっぽかさないようにしましょう。なお、フランス人がスイスのフランス語をまねる際、非常にゆっくり、鼻母音を強調しながら話しますが、実はこれ、ドイツ語圏のスイス人がフランス語を話す時の特徴をまねたものです。傭兵の歴史や、Lausanne一体がBernに支配されていたこと等が関係しています。興味のある方は調べてみてください。
 このように、大枠でも教材でおなじみの「ドイツ語」や「フランス語」とは異なり、さらには街や地方によっても差のある言語群が点在しているというのが、「公用語が4つ」の実態です。山岳地域の「ロマンシュ語」に至っては、谷ごとに異なると言われるほどです。さらに注意が必要なのは、ここに人々の移動や交流が、日々の生活レベルで加わることです。事実、言語圏を越えた通勤や買い物、家族関係等は珍しいものではなく、使い分けや併用はごくありふれたことです。次のような感じです:車で5分のドイツ語圏の街で、フランス語圏の人間が英語の職場で働いている⇒そこで出会ったロマンシュ語圏出身者と恋に落ちる⇒2人の子供はイタリア語圏のインターナショナルスクールに通う⇒学校では日本にもルーツを持つ同級生(日瑞カップル、多いです)に惹かれていく...
 こうした個人や集団間での言語の使い分けの中で、それぞれに影響を受けた表現、用法は無数に生まれることになります。例えば、フランス語圏のスーパー等でよく見かけるActionは、ドイツ語圏でのAktion=特価のことです。フランスならPromotionですね。様々なニュアンスがありますが、「~ってことか?」のように文末で使われるou bien ?も、ドイツ語圏での類似用法からきていると言われています。一方、フランス語やフランス文化への憧れの強い(決して認めませんが)ドイツ語圏では、書く際でもDankeはしばしばMerciとなり、それに各地の表現でvielmalsが加わります。結果、例えばBaselではMerci viilmolとなり、「え、これ何語?スペルミス?」と読者の皆さんが思われたであろう、本コラムのタイトルが出来上がるわけです。


 それぞれが大国の言語とは異なり、さらには地域間でも差異があり、それらを日々使い分ける話者がいて、様々な混合表現も生まれてくる...まさに「多様性」ですね。最近では金融面で世界を騒がせていますが、実はスイスは様々な分野で世界をリードしている国です。一例だけあげると、いわゆる「世界大学ランキング」では、非英語系、またドイツ語系のトップはドイツの大学ではなくZürichのETH、フランス語系もLausanneのEPFLというのが定番です。こうした力の源泉には、日々の生活に根差した、唯一の正解にこだわらず、様々な可能性を楽しみ、それぞれの特殊性を活かしていくという姿勢があるように思えてなりません。スイス流の複言語や多言語の実践、学ぶべきことは多そうです。

(2023.4.5掲載)